せんずりかわらいた と読む (書き込みは当サイト内のページに転載することがあります)
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楽しく拝見
投稿者:
さわ
投稿日:2008年 7月 3日(木)13時41分34秒
この掲示板をみているかたは、礼儀正しく心優しく、「場違いかも」とか「ワリコミですが」と、お書きになっているのですが、全然そんなことない上に、もともと、BBSというのは、場違いやワリコミのオンパレードになるのがおもしろいところなのですヨ。
いろんなかたの言葉を噛みしめつつ、嬉しく拝見しております。
叫ぶ詩人
投稿者:
きはら
投稿日:2008年 7月 3日(木)01時45分36秒
はるさん、ありがとうございます。
ぐぐってみたら、明川哲也さんという人は、さわさんが言及していた「叫ぶ詩人の会」をやっていた人だということが分りました。
力一杯、どまんなかのストレートですね。水で割らないという意味でもストレートだな。降参です。
こんにちは。
投稿者:
はる
投稿日:2008年 7月 2日(水)12時37分19秒
きはらさん、はじめましてと言うのかな。ここでは時々お目にかかってはいるのですがね。
私がミューズに身をささげているかどうかは今のところ定かではありませんが、きはらさんの下の文章を読んで思い出したことがありました。新聞の人生相談なんですが、読んだときはザワザワと感動しました。下に転載します。ちょっと場違いかもしれませんがね。それではまた。
はる 2367
新聞もほとんど読まなくなって久しいけれど、たまたま今朝は拾い読みした。人生相談という奴があって、何時の世もくだらないことで悩んでいる人たちがいる。でまぁそれをどう答えるのか、ということの方に興味がある。
明川哲也さんの解答はいつも面白い。直接悩みには答えていないのだけれど、大きな意味で解答になっている。そういった答え方にこの人の人生哲学が伺えて面白いのだな。
相談事は「自分は人に愛されていないのではにか?」というつまらん話だ。
解答を私なりに解釈して書いてみる。違っていても文句は受け付けないのであしからず。
人は生まれた時は多くの人に祝福されて、ただ存在するだけで周りの人を幸福にする。少年少女の時期もまだまだ多くの大人たちに愛されて慈しまれて育ってゆく。
二十歳過ぎになっても「若い」というだけで、夢や希望の代名詞にもなり、失敗してもほとんどの場合許されるし、また新しいチャンスがやって来る。
ところがある時期を過ぎると急激に疎まれる存在になる。オジサンやオバサンの時期を過ぎて、今度はジジババになってくるとさらに存在そのものが疎まれるようになってくる。
人はそのことにあまり気付いてはいない。何時までも自分は特別で「愛されている」と勘違いしている。そんなところから色々な誤解やトラブルが起きてくる。
早めはやめに対処しておく必要がある。「愛されなくなった」時に人はどうするか?ということですね。
ここに哲也さんの珠玉の解答がある。以下無断転載します。
「……答えは一つです。愛することしかありません。見返りなく、愛すること。生きる時間を経るほどに、お金があるない、地位があるない、健康があるない、家族があるない、いろいろと現象面での結果が出てくるものですが、人間の到達目標はその最高の魂、何もかも愛するこころを持つことによって、「人間」になると僕はおもうのです……」
おぉ、なんと簡潔で高尚で人の道を唄っているのでしょう。まぁこれが現実不可能なお題目としても、それを言葉にしたというだけで、目の前の明るくなるような気がする。
(無題)
投稿者:
こうたろう
投稿日:2008年 7月 1日(火)23時58分38秒
藤原新也のホームページによれば、例のアキバ事件について語っているが、読売新聞の編集手帳に「世の中が嫌になったならば自分一人が世を去ればいいものを」という論調があったそうだ。この前の朝日の「死神」発言といい、大新聞がこの調子じゃ、確かに世の中も悪くなるわな。読売は新聞記者として事の本質が全く見えてないし、朝日のお坊ちゃんはギャグのセンスがないのか、全く笑えない。
もうどこかへ消え去りたい。
有性生殖
投稿者:
きはら
投稿日:2008年 7月 1日(火)23時52分10秒
人間が有性生殖をする動物として創られているということは動かし難い事実なので、その点から導き出される制約みたいなものは、所与の条件として受け容れてしまうのが無理のない考え方だと思うわけです。
ちょっと話、神の言う事きいてくれ
あしきの事は言わんでな
この世の地と天とをかたどりて夫婦をこしらえきたるでな
これはこの世の始めだし
これは天理教のおつとめの第二節。「あしきの事は言わんでな」というのは、「罪についての話は、この際、ちょっと置いておく」というぐらいの意味です。そして、この世の基本的な仕組みとして神さんが男女(夫婦)というものを拵えたんやで、ということが言われている。
ただし、天理教の教祖は、自分の後継者にと思ったある女性に対しては、「いちみぐらし」をして神に仕えてくれないか、と頼んだことがあるようです。あんたら必ず結婚しなはれ、という単純な話でもないのですな。
弟子たちイエスに言ふ
『人もし妻のことに於いて斯くの如くは、娶らざるに如かず』
彼らに言ひたまふ
『凡ての人この言を受け容るるにはあらず、ただ授けられたる者のみなり。それ生れながらの閻人あり、人に為られたる閻人あり、また天國のために自らなりたる閻人あり、之を受け容れうる者は受け容るべし』
(マタイ19:10-12)
「閻人(えんじん)」っていうのは宦官のこと。
イエスがあんまり厳しい性道徳を説くもので、弟子たちが「もう、いっそ、エッチなんか諦めて、結婚もせん方がええんですかねえ」と言う訳です。イエスは、いやあ、特に理由が無いなら、無理せん方がええよ。「やむを得ない」者だけ、そうするのが良えんとちゃうか、と言う。
井上ひさしが、性欲を断つという自分にはとても出来ないことをしてまで神に仕えようとしている人(神父)がいる、そのことに圧倒されてキリストを信じる気になった、みたいな事を言っています。
つまりは、有性生殖をする動物であるという条件に逆らって生きることが、その人にとっては自然な場合もあるということですね。例外もある、という、当り前の話。
しかし、原則としては、おおかたの凡人は、天然自然の性欲にしたがって配偶者を得、子供をもうけて、一人だったらしないような苦労を嬉々としてするのが幸せなんじゃないか、ということです。
核家族
投稿者:
きはら
投稿日:2008年 7月 1日(火)23時26分23秒
「親が果たさなければならない役割云々」は、榎並さんの文章を読んで、そうそう、そんな感じだと思い、自分の言葉に置きかえたものです。
<引用>
一番最初は親がそれを埋めてくれた。愛情いっぱいに育てられたなら、当分の間欠けを意識する事も無い。ところがねぇそれも絶対じゃないんだなぁ、どこかで親を超えちゃうからね。はやいか遅いかはあるけれど、いずれは自分で探さなくちゃならない。生まれたときから神が側にいる家系なら、極自然にそれがその部分を埋めてくれるのだろうけれど、今の日本じゃ形骸化した神さんがいるだけだからなぁ。尚むつかしい。
(中略)
結局大人になっても変わらない。「私を見て」と叫んでいる。それって何なんだろう。見られることで自分を確認しているのかな。たった一人でもいい、私を見て!見て!見て!と叫んでいる。
まぁそれって虫のいい話だけれどねぇ。反対に言えばあんたは誰かを見ているかい?全てのものを捧げたかい?と聞きたくなる。水泳の息継ぎのように全部はいてしまえば、自然に入ってくるように思うけどなぁ・・。
<引用終り>
人間は、自分よりも大切なものを持っていないと、うまく生きていけないように出来ているのだと、僕は思っています。人間には、自分の事を後回しにして奉仕すべき対象が必要だ、という事です。そうでなくて、自分自身が一番大切なものである限りは、どう頑張ってみても、負け戦であることは目に見えています。遅かれ早かれ、みじめに年老いて、死んで、それでおしまい。なーむー。
その自分より大切なものを神と呼んでもよいのですが、実際はそれを「持つ」ことは出来ない。上位のものを「持つ」というのは形容矛盾です。「持たれ」なければならない。我を捨てて、身を投げかけて、受け止めてもらう必要がある。
榎並さんは、ミューズに仕えて、その辺の呼吸を会得されているんだろうと思う。
「生まれたときから神が側にいる家系」というのを榎並さんがどういう具体例を想像しながら仰ったかは訊いてみないと分りませんが、僕が思うのは、現在の家庭、特に核家族化した夫婦と子供だけの家庭において、在来の神様(地縁社会の神である氏神様)や仏様(血縁社会の神であるご先祖様)の存在が非常に希薄になっており、そこに空白が生じているという事です。そしてその空白を「金」の神様が埋めている。拝金よりもマシなものを求めるとしたら、男女間の愛か親子間の愛しかない。だから、親(または配偶者や子)が果たすべき役割が大きくなりすぎている……と、まあ、ちょっと図式的に端折りすぎた所はあるかも知れませんが、そのように理解しています。
ワリコミですが
投稿者:
Catwalk
投稿日:2008年 7月 1日(火)12時46分44秒
>人間とほかの動物の「根本的な違い」
で、思い出すのは孫引きですがマルローの『希望』にあるという「人間はだれでも気違いだが
人の運命というものは、この気違いと宇宙とを結びつけようとする
努力の生活でなかったら何の価値があろう?」です。
十代のころ巡り合ったこの言葉とDylanにずいぶん助けられてきたなと。
あとスズキダイセツさんの「犬や猫は禅そのものを生きるが人間は(キガフレテイルノデ)
それができないので禅を学ばなければならない」なんてのも。()内はわたしの解釈(^o^)
「十牛図」はずっと好きなのですがいまだダイセツさんには触れずじまい。
鹿の眼、馬の眼のように澄んだ瞳はナカナカ人間にはもてないですね。
わたしは動物園は類人猿はちょっと痛ましい気がしてニガテなのですが
キリンを眺めるのが好きです(^o^)丿……もうすぐナツヤスミですね、ご家族皆様よい日を。
(無題)
投稿者:
まれびと
投稿日:2008年 7月 1日(火)08時42分59秒
必要なのは「多面的なものの見方であり、理性であり、メディアリテラシーなわけで」あると同時にまた、直観であり、「主語のある」主観であり、狭く深い井戸の底からの声ではないかとわたしは考えます。
じっくり考えれば、わたしは「健康な人間」ではなく、やっぱりどこか病んだ人間の部類でしょう。
病んだ人間としていつも危うい爆弾は抱え持っているわけですが、それを実際に爆発させたやつとは、やはりテッテイ的に異なる。
今回の事件の容疑者に対して、じぶんを寄り添わそうとすればいくらでもずぶずぶと下りていける。そうやって出てくる言葉もあるし、逆にじぶんからかれを引き離すことによって出てくる言葉もある。
寄り添って(といっても、これもある意味勝手な行為ですが)出てくる言葉もあるけれど、その後、容疑者に共感しかれを「支持する」声が広まりつつあるという報道に接して、わたしは急に「ひけて」しまったわけです。容疑者の原因や理由とは別に、そうした空気感染のようなものの方がすでに病んでいることのようにわたしには思える。とくに後者は「多数」の世界であることが、個人的に好きになれない。やっぱり、孤独な世界でやるやつの方が好き。
酒鬼薔薇クンや例の月ヶ瀬事件の犯人、あるいはオウム事件などに比べると、これはあくまでわたしの中での感覚にしか過ぎないのだけれど、どうも薄味というか(こんなこと言ったら叱られるか)、「やつ」の行為や存在が、日がたつにつれて妙に軽いように感じられてきて仕方がない。それが共に寄り添って落ちていこうとしてもふっと身を離してしまうことの原因のように思える。じぶんが鈍感で飽きっぽいからかとも考えているが、どうも持続的に付き合えるだけのズシンとした重みに欠け、どろどろした部分に粘り気が少なくて、じつは中心には軽い風船みたいなものがふわふわと浮いているだけなんじゃないかと思ったりする。このあたりはうまく説明できないかも。
さわさんが仰っていることのその先は、要は事件自体や容疑者じしんのことではなく、それを契機に発生する悪しき連鎖反応の部分の危機があるのかなと思います。気持ちの悪いお祭騒ぎ---いやお祭騒ぎでは済まない深い問題がそこにこそあるみたいな、そんなものが横たわっているような気がする。
上野の博物館の地下でぶらぶらと揺れている地球の振り子みたいに、さわさんが多方向から引っ張り戻してくれようとしているのは無論、理解しているつもりです。
「そこに、もともとイミなんかねーんだよ」っちゅうのは、いわば、サトリですな。
(無題)
投稿者:
こうたろう
投稿日:2008年 6月30日(月)23時33分0秒
「ゴリラの鼻くそ」は上野動物園でも売ってるぞ。結構いろんな動物園で売っているようだ。中身は黒豆の甘納豆でけっこう美味しいと思う。
似たようなことかもしれませんが
投稿者:
さわ
投稿日:2008年 6月30日(月)18時07分11秒
まれびとサンは、(秋葉原の事件の犯人について)「反応せざるを得なかった事情」のような部分に共感を覚えるのであって、かれの行為に共感するわけではありません。と、お書きになっているのですが、むろん、そりゃそうでしょう。たぶん。
しかしながら、それは、部分として、そうキレイに分けられるものでもナイ、ということも、薄々は感じているのではないですか?
わたしはカレについて、「脳に異状」説を書いたのですが、その根拠のなかの主なものは、カレの事件の構造が「ネオ麦茶」事件(西鉄バスジャック事件)に似ていることと、ざっと知ったカレの経歴とカレの言説に整合性がないと感じたことなどです。ネオ麦茶が脳に異状があるとされるなら、カレもその可能性がつよい。(また書きますが、「脳に異状」というのは、非常に大雑把すぎる表現で、器質異常なのか機能異常なのか、または複合的、あるいは、さらにほかの異状なのか、は、わかりません)
その仮定の上に話をすすめますと、まれびとサンがお書きになっているように「人が人を殺すというのは精神的にも肉体的にも物凄い作業」(エネルギーがいる)なのは、たしかですが、「たんなるものぐさにはできない」かどうかは、そりゃ、わかりません。人によります。
相手に口で説明するのが面倒だったので殺してしまう、という粗暴な殺人者もおりますし、緻密な作業を積み重ねて様式美のような殺人をする犯人もおります。手段を選ばずに欲望を満たすための「手段」としての殺人もあれば、殺すことそのものが目的の殺人もある。後者の場合は、被害者は、ほんのすこしの条件を満たしていれば、ほとんど誰でもいい場合が多いです。
そして、むろん、その「動機」というのは、自殺する人の動機が結局だれにもわからないのと同様、他人にはわからないでしょう。
彼らと御自分とのあいだに謎の絶対的裂け目があると、まれびとサンがお感じになるのは、まれびとサンが、どちらかといえば、健康な人だからだと思います。
彼らは、「そこを飛び越えた瞬間に、あちらの世界にいってしまった」のでなく、すでに身体の一部(意識)が「あちらの世界」にいってしまっているので、ほんのすこしのキッカケで飛び越えてしまい、物理的な行動に移行する、とも言えるのですが、まあ、そんなことはどうでもいいか。
NHKが、わりと丁寧にその後の取材をしていて、カレの車体工場での同僚の生活を紹介していました。その一人は沖縄から来ている青年で、給与明細を見せてくれました。給料は月額20万円以上ありましたが、派遣会社借り上げの住まいに暮らしているので、その費用なども引かれ、手取りは14万円ほどでした。その青年は、カレの経歴や現状が驚くほど自分と似通っていることに驚いていました。
たまに会話を交わしたこともあったそうですが、それ以上の深い付き合いはお互いに避けていた、というか、ふつう、そういうものだと思っていたそうでした。
わたし自身は、少年犯罪や凶悪犯罪が、マスコミの一部で言われるほど増えているような気はしていないのですが、昔にくらべて間違いなく激増しているのは、そうした犯罪に関する報道、あるいは報道と称する覗き見趣味の類です。それにインターネットのせいで、文字通りフリーのレポーターも増えているわけだ。そういう状況では、場合によっては、森達也さんのいう「主語のない憎悪」みたいなものが増幅して跋扈するような事態もまま起きるでしょう。一面では、それは避けることのできない事態だと思います。なによりの証拠に、ここにこうして犯罪論めいたものを書きつづっているわたしもいるわけだし。
で、それをどうするのかというときに、どうしても必要になるのが多面的なものの見方であり、理性であり、メディアリテラシーなわけですよね。それを、どうやって意識していくかっていうことが問題じゃないでしょうか。
以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。
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