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異端についてはあまり詳しくないですし、挙げられた本も読んでないので、引用だけの知識でのコメントですが。
(1)至高神を「ザイオン(現実)の世界そのもの(そこには当然マトリックスも含まれます)、あるいはその創造神」と捉えると、並列した「対立」関係というよりは、釈迦の手のひらの上での「対抗」のような関係でしかなくなるので、二元論というにはちと弱いのではないかと思います。
したがって、この場合の「至高神」にあたるのはザイオンの世界というよりは「真実を知っている人間たち」でしょう。それに神というものは何らかの意志を持つものですから。
ただ、はっきり「マシン/マトリックス=悪、人間/現実=善」と言い切ってしまうのはちょっと違和感がありますね。ネオの見たマシンシティの美しさ、アーキテクトやデウス・エクス・マキナの(マシンなりの)正直さ、オラクルやサティの存在などを考えると、二元論ではあっても善悪の差ではないような気がします。
(2)言葉じりを捉えるつもりは無いのですが、「…という確信」という表現には「自分では確信しているけれども、本当の所はどうなのかはだれにもわからない」というニュアンスが感じられます。ここで言っているのは『人間の内部に「神的本質」「本来的自己」が存在するにもかかわらず、そのことに気付いていない人間たち』ということですよね?それで「現実に肉体があるにもかかわらず、それに気付いていない人間たち」へと繋がるとおもいます。
(3)この場合の救済啓示者はオラクルではないと思います。オラクルが啓示を与えるのは、すでに目覚めた者たちです。オラクル自身が覚醒をもたらすことはありません。これも、至高神が目覚めた人間であるとすれば、啓示者も目覚めた人間がジャックインしている状態とするのが妥当だとおもいます。
[この世の終わり]ん~これはどうですかね。どちらが勝ってもマトリックスが終わるわけじゃないので、一つの区切りではあるけれど、終末的な最終戦争というには、ちょっと…。個人的にはむしろ、リロのコンセプトでもある輪廻=終わりなき闘いのイメージが強いんですけど。
まあ、いずれにせよ、そういう読み方もできるとはおもいます。まったく、なんでもありなんだから、あの映画(^^;)
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