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えーと

 投稿者:TOMOメール  投稿日:2005年 8月14日(日)02時19分32秒
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  まずは原典の方から(^^;)
ネオの台詞はこうです。Neo: Because I choose to.
日本語で「選択したからだ」としてしまうと<何を>が抜け落ちてかなり曖昧になってしまいますが、原語では「to」があることから、そのあとに動詞が省略されていることがわかります。おそらくは「闘うこと」、もっと広く解釈するなら、スミスの指摘した動作すべて、つまり「信じる」「愛する」などの人間特有の動作を含めても良いと思います。
すなわち、ネオの答えは「そうする理由は、自分でそうすることを選択したから」ということになります。

それ以外の理由、スミスの理解できるような論理的な理由については一切触れていません。しかし、この答えは、スミスには論理的に反駮できない唯一の答えでもあります。人間の存在には意味も目的もない、というのはスミスの見た客観的事実です。しかし、主観的な価値判断によって与えられた目的や意味は、主観的であるが故に客観的な根拠は必要としないのです。客観的事実が有効なのはそれを受け入れる主観があってこそで、主観、つまりこの場合の議論の前提が異なっている場合は、完全の別の話になってしまいます。それはユークリッド幾何学(平行線は交わらない)と非ユークリッド幾何学(平行線は交わる)の差のようなもので、どちらをとっても論理的な破綻はなく、したがってどちらもそれぞれの前提で十分に論理的である、以上証明終わり、となります。
まあ、そこまで言わなくても、スミスの指摘した客観的事実を(スミスの言う通り)しっかり理解した上で、それでもなおネオの判断がそうである、となれば、もう反論の余地はないんですけども。

いずれにせよ、ここでのキモは「客観的事実は主観的前提によって成立する」ということでしょう。「客観的」であることを認定するのは<主観>です。仮想の客観的存在を想定することこそ幻想ですからね。たまたま大多数の主観が「これは客観的事実である」と認定しているから、だいたい客観的であるとして通用しているわけで、それ以上の論拠はありえません。「客観」こそ理論上の存在です。
スミスの言う「意味も目的もない」という価値判断自体、スミスの主観的判断です。たとえそれがどれほど論理的に支えられていても、いわゆる客観的事実で示されていても、それは主観的判断にとっては「傍証」にしかすぎません。
すなわち、同じ<傍証>を与えられてまったく異なる主観的判断をすることは、論理的に言ってもまったく問題はないのです(それが「主観」の定義といえるかもしれません)。ネオの答えは、ひとことでそのことを言い切ってしまったわけです。

さらに言えば、「選択する」=「自分で決める」という動作自体も、いわゆる(くどいようですが^^;)客観的事実に対する強力な武器になります。

そもそも「目的」や「意味」という概念自体、主観的なものです。存在そのものに意味や目的はありません。しかし、だれかがなにかの存在に(主観的に)意味や目的を与えれば、(少なくともその主観的主体にとっては)その存在には意味があり目的があることになります。それは客観的には否定のしようがありません(説得して心変わりさせる、というのは別の話ですよ、念のため)。
つまり、そもそもが意味や目的は与えられるものではなく、自らが与えるものだということです。そして、自由な人間にはその選択の余地があり、それ(主観における自由選択の余地)は力によっても論理によっても奪うことはできない。ネオが行使したのは、そのレベルの選択権なのです。

ということで、存在に対する<目的>や<意味>は各自の中にある(もしくはない)、と言うことだと思います。
個人的には、現実の人生を避けられない以上、論理や宗教には関係なく(爆)、すべての存在に意味を<与える>ことを「選択します」。
 
 
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