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逆立ちした法王は電気磔の夢をみるか?(笑)

 投稿者:TOMOメール  投稿日:2005年 8月14日(日)08時34分29秒
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  ん~、あいかわらず鋭いですねぇ。ありがとうございます。

ただ、私の意見としては、『「根拠なき決断(決断主義)」のようなもの』でいいと思うんです。ここでいう<根拠>もまた<論理>のたぐいであることは別として。

人間の判断(主観)は何処からくるのか。
まったく何も無い所からぽんとでてくるとは思えません。やはり何らかのインプットがあって、その結果として出てくるものでしょう。では、インプットとはなにか。論理もその一つではありますが、それだけではありません。というか、論理は処理をするには知識と経験を要する相当ハイレベルな処理の必要とするインプットであり、かなり特殊な部類に入ると思います。
では、広くとって自分以外のあらゆるもの(環境、といっても良いでしょう)からくるインプットすべて、なのでしょうか?物理的な刺激として入ってくる情報全て。理論的には他の情報源はありませんから(いまのところ?笑)、その方向で考えましょう。
ここで見落としがちなのは、物理的な刺激というのは自分の肉体の中からくるものも含まれる、ということです。刺激は何らかの形で<情報>に変換されて意識という正体不明のモノに渡されて処理されます。つまり、意識で処理される<情報>になるまでは、すべからく物理的要素に影響されるのです、最終段階の変換作業そのものも含めて。
すなわち、どのような刺激も、個々の(それぞれに特有の特性を持つ)肉体によるフィルタを通して<情報>に変換され、それからインプットされるわけです(まだ処理はされていない「生データ」として)。
それから、ローレベルの処理つまり無意識下での処理(これまた個体差はあるでしょう)を経て、やっと意識に到達します。前段階である無意識下の処理をコントロールするのはむずかしいでしょうし、その結果を論理でキャンセルするのは不可能です(せいぜい無視するのが限度でしょう)。痛い、きもちいい、といったローレベルの意識要素は無意識下での処理結果です。「痛い」の原因となる刺激は特定できても、その刺激を<痛い>と認識するプロセスを意識的に(論理で)コントロールすることはできません(一般的には。笑)。
意識、すなわち論理の通用するところにたどりつくまでに、これだけのフィルタを通り、ある程度の前準備、ある意味での判断のようなものを済ませているわけです。もっともプリミティブな判断、「きもちいい」か「きもちわるい」かはこの段階ではもう決まっているのではないでしょうか。
そして、そのプリミティブな感覚判断を根拠にした決定において、意識上の論理はつけたし、せいぜい社会的なチェックでしかありません。「きもちいからこっちがいい」という厳然とした感覚判断があって、それを意識(論理)が許容するかぎり、その決定は無条件で(本人にとっては)正しい結論なのです。

長くなりましたが、論理でコントロールできない(したがって結果の説明もできない)肉体/無意識による感覚判断とでもいうものがあるのではないか、ということなんです。それを論理で見てしまうと「根拠なき決定」としかとらえられないけれども、そのプロセスを考えると否定することもできない、そういう決定。
ネオの「選択」はそういう生身の存在に無条件で存在するローレベルの感覚を根拠としたものではないでしょうか。論理的には理解不能…スミスやアーキテクトはもちろん、他の人間にさえも理解不能な、でも他の人間やオラクルには(理解はできなくとも)受容可能な理由による選択。だからこそ、アーキテクトやデウスがネオの「選択」をあれほど尊重し、また必要としていたのではないでしょうか。

ちなみに、そのようなローレベルの感覚判断(プロセス)はリアルタイムではまったくコントロールできませんが、ある程度の時間があれば、多少は変えていくことができるとおもいます。肉体的な部分は、単純に栄養や体調という問題から神経シナプス情報伝達物質の薬物調整までいろいろ方法はありそうですし、無意識判断の部分は経験の有無(量/質)でかなり変わってくるとおもいます。
マトリックスでのプログラムシミュレーションではリアルタイム(に近いくらい)の早さでパラメータをかえることができるかもしれませんが、生身の人間ではそうはいきません。けれども、逆にある意味で変えやすいものであるわけで、その「心変わり」が非論理的とも柔軟性ともなるわけです。今現在の主観的判断は今現在のモノ、過去や将来に渡って絶対的なものではありません。下手にある時点での論理的な理由に縛られてしまうと、それ自体が非論理的な「思い込み」になってしまう危険性があるのです。

そのときどきに、自分の心の中を素直にのぞくこと、体に聞いてみること。論理的には説明できなくても存在しうる感覚的判断を確認すること。主観を(意図的に)客観にすり替えることなく、あくまでも主観としてあつかうこと。
そうすれば、「主観的確信」(の中身)は不変のものではなくなるはずです。その場合、なにがきっかけで変化がおこるかは誰にもわからないので、選択肢を狭めないためにも一応言うだけは言っておこうか、というのが私のスタンス。あとはご自由に「選択してください」、です。

もちろん、ネオが預言を信じていることを認めるにやぶさかではありません。わたしが言っているのは、「なぜ預言を信じる気になったか」の部分ですから。
 
 
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